原田 裕規 Yuki Harada

One Million Seeings
2019, Two Channel Color Video
24 Hours 5 Minutes 21 Seconds
Adviser: Shintaro Wada
Assistant: Ken-ichi Nakahashi, Katsura Muramatsu
Technical Support: Honkbooks
Location: KEN NAKAHASHI

This video work records the artist observing the photographs he collected. In a way, this work is an attempt to create a “retreat” for these photographs that were disposed of that “have nowhere to go.” The first recording ran for twenty-four hours and featured the artist himself. By presenting photographs that were once deemed “useless” to the public, the sphere of intimacy surrounding the photographs echoes from the owners of the photographs to the performers in the videos, and then to the viewers.
The performers are instructed to “view each photograph until they feel a connection” and attempt to uncover some kind of relationship between themselves and the photographs. For this reason, the time spent looking at each photograph is long and heavy. The final goal of this exercise is to make the performer and viewer aware of “the final gaze on the photograph.”
For the viewer, the work can be seen as a slide show of various scenes appearing at random. The sheer variety of randomly projected photographic images does not prevent anyone from getting emotionally involved in them. In the background of the images, the soundscape of people’s voices, police cars’ sirens, and live music playing in the background of the places where the photos were taken overshadows the changing lives of the people photographed.


One Million Seeings
2019年、2チャンネル・カラービデオ
24時間5分21秒
アドバイザー:和田信太郎
アシスタント:中橋健一、村松桂
技術協力:コ本や honkbooks
撮影協力:KEN NAKAHASHI

作家によって集められた「行き場のない写真」を見届ける様子を記録した映像作品。「行き場のない写真」の「行き場」をつくるための試みでもある。第一作は作家自身が出演し、24時間にわたって実施。第二作目以降も、ほとんどの場合で同様の構成をとっている。一度は不要とされた写真がふたたび人目に晒されることによって、写真をめぐる親密圏が持ち主の元から、出演者の元へ、鑑賞者の元へとこだましている。
出演者は「写真との関係性が結ばれるまで見る」というレギュレーションのもと、自身と写真の間になんらかの関係性を見出そうとしている。そのため、写真一枚一枚を見つめる時間は長く重たい。それとともに、本作は「写真に向けられた最後のまなざし」をパフォーマー/鑑賞者が追認することも目指している。 鑑賞者にとって本作は、ランダムに立ち現れるさまざまな情景の不条理劇(スライドショー)としても見ることができる。無作為に映し出される実に多彩な写真のイメージは、そこに誰かが感情移入することを決して拒みはしない。また映像の背景では、撮影地の眼下を行き交う人々の声、パトカーのサイレン音、音楽ライブの演奏などのサウンドスケープが鳴り響き、豊かに変化する人々の営みが覆い被さるように聞こえている。

One Million Seeings
2021, Single Channel Color Video with Sound
24 Hours
Performance: Yuki Harada
Cinematography: Shintaro Watanabe
Location: Hotel Gracery Shinjuku


One Million Seeings
2021年、シングルチャンネル・カラービデオ
24時間
パフォーマンス:原田裕規
シネマトグラフィー:渡辺真太郎
ロケーション:ホテルグレイスリー新宿

One Million Seeings
2021
Single Channel Color Video With Sound, 4K
2 Hours 24 Minutes
Performance: Yuki Harada
Cinematography: Shintaro Watanabe
Location: Decameron, Tokyo

One Million Seeings
2021年、シングルチャンネル・ヴィデオ(4K、カラー、サウンド)
2時間24分
パフォーマンス:原田裕規
シネマトグラフィー:渡辺真太郎
ロケーション:デカメロン(東京)

One Million Seeings
2023, Single Channel Color Video With Sound, 4K
24 Hours
Performance: Yuki Harada
Cinematography: Shintaro Watanabe
Location: Yurakucho Building
Supported by YAU STUDIO
Commissioned by TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCH PROJECT

One Million Seeings
2023年、シングルチャンネル・ヴィデオ(4K、カラー、サウンド)
24時間
パフォーマンス:原田裕規
シネマトグラフィー:渡辺真太郎
ロケーション:有楽町ビルヂング
協力:YAU STUDIO
制作委託:TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCH PROJECT

誰かの見た光景が、誰かの見た情景に変わるまで
中尾拓哉(美術評論家)

ふと展覧会に立ち寄り、映像作品を鑑賞する。開始あるいは終了の切れ目がわからず、部分的に見ただけで、見たつもりになり、通り過ぎていく。この時、「見た」という状態はどのように完了するのであろうか。あるいは、どのような感度で。
原田裕規による映像作品《One Million Seeings》は再生時間が24時間ある。それゆえ、この映像作品全体を見ることには多大な身体的負荷がかかる。むしろ全体を「見た」という状態に至ることを放棄させられているようですらある。原田は、定点カメラで撮影された映像の中で、椅子に座り、山積みになった写真を手に取り、しばらく眺め、淡々と重ねていく。この動作は再生時間通り24時間ノーカットで続けられる。
河原温による書物《One Million Years》には「過去」、すなわち紀元前998031年から紀元後1969年まで、および「未来」、例えば紀元後1981年から紀元後1001980年までというように、それぞれ100万年を数える年数がタイプされている。その数字は正数であり、均質である。そして、時折その厖大な数字を部分的に淡々と朗読するパフォーマンスが行われるが、しかしふとそこに立ち寄ったとしても、カウンタブルな全体と部分は質的に変化することはない。
他方、原田の「パフォーマンス」では、カウンタブルな「枚数」としての写真から、アンカウンタブルな「記憶」としての写真への移行が引き起こされる。例えるなら、河原が描いたカウンタブルな「日付絵画」に対し、対象となる日付ではなく、絵具の積層やキャンヴァスの網目に残されたアンカウンタブルな痕跡を見つめ、その向こう側にある河原が「いた」時間へと、それを1枚ずつ遡行させていく試みに近い。

これまでも原田は産廃業者や古物商から収集した不特定多数の人物が撮影した行き場のない写真を扱い作品を制作してきたが、それがどのようにアンカウンタブルなものとなるかは、彼自身が「写真を1枚1枚できるだけ丁寧に見ていくうちに、知らない人たちの存在が脳裏に焼き付き始め、会ったことも声も知らない人が夢に登場するなどして、トラウマ化するに至ってしまった」と語った通りである。光の痕跡──その一瞬、一瞬──のままの残像──そのひとつ、ひとつ──をカウンタブルな物質から、アンカウンタブルな記憶へと移行させる。ただし1枚1枚、カウンタブルに「見た」という状態を完了させながら。
とはいえ、衝撃的であれ、些細であれ、それらの情景ですら、完全に記憶することは不可能なのだ。だからこそ、そもそも人は写真を撮るのであり、アンカウンタブルな情景をカウンタブルな光景へと切断してきたのである。結局のところ、その全体と部分は、ふと展覧会に立ち寄り、《One Million Seeings》を鑑賞し、開始あるいは終了の切れ目がわからず、部分的に見ただけで、見たつもりになり、通り過ぎていく、という現代アートにおける映像作品鑑賞で起こりがちな、「見る」という全体と「見た」という部分の関係にもまた、そのまま、重なり合う。ゆえに、ここでの「見る」という不可能性から「見た」という恣意性への切断は、原田が「見ている」写真から、鑑賞者が「見ている」映像へとメタ的に重なり合い、入れ子構造を形成する。こうして、24時間淡々と「見る」というカウンタブルな身体的負荷をはらんだ《One Million Seeings》を「見る」ことは、《One Million Years》の厖大な年代の羅列と、その数字を部分的に淡々と朗読するパフォーマンスに近似しつつ、写真を「見る」原田の「情景」を、その映像を「見る」鑑賞者が感情移入した「情景」として──カメラのシャッターのように──移して[=写して]いくものとなるのである。
かつて、ある光景は、それを「見る」人の情景となり、「写真」として撮影されたその光景は、それを「見る」原田の情景となり、「映像」として撮影されたその光景は、それを「見る」不特定多数の鑑賞者の情景となる。だからこそ、その連続は、アンカウンタブルな「見る」という「情景」から、カウンタブルな「見た」という「光景」へと移していくものでありながら、アンカウンタブルな「情景」を移して[=憑依させて]いくものともなりうるのである。つまり、誰かの「情景」を「光景」として切断した「写真」、そして「映像」は、「見る」という状態を通じて、奪われた時間──静止画から動画へ──と光──色料から色光へ──とを少しずつ取り戻しながら、再び記憶の次元へと還ってこようとするのだ。誰かの見た「情景」として。



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